「ハイヒールを履いて背筋が曲がる女はいない」

 まだ、いつきが虫採り網を振り回していた頃、日の光を我がアクセサリーのように髪に集めていたかすがは、瑞々しい時代を誇るようにしてヒールを鳴らし、傲然と胸を張っていた。
 彼女がその目に止まるようにと心を砕いていた人は、残念ながら既に己の伴侶を得ていたので、いつきにはかすがの努力は理解し難いものではあったが、かけっこや虫採りには到底適さぬ洗練された立ち姿の美しさばかりは網膜の奥に焼き付けられた。

 蝶を踏めばたちまち標本にできるだろう、細く尖ったヒールの先端を危うげもなく前後させ、歩くかすがは笑っていようと泣いていようととても美しい大人の女で、同じ性別でありながら自分とは決定的に違うのだと思わずにはいられなかった。いつきはどこを見ても未発達で、蘭丸と遊んでは喧嘩の明け暮れの中に生きていたのだ。
 いつかおらもかすがの姉ちゃんみたいになるんだろうか、とこぼすと、蘭丸は蛙が蝶になれるわけねえだろ、と大変失礼な言い種をして、顔をくしゃくしゃと歪めた。

 無礼な子鬼には適切な報復を行ったが、それからというものいつきの目は時折ハイヒールに吸い寄せられては、未来を思い描くようになった。ハイヒールの足元に潜んだ未来が待ち遠しくもあれば、恐ろしいと思うこともあった。あれを履けるようになった自分を想像することが、楽しくもあれば嫌で仕方ないこともあったように。つまりいつきにとってハイヒールは美しく、恋をする、女そのものだったのだ。


 成長すれば通らざるを得ない道には、ハイヒールが踵を揃えている。


 いつきが恐れたのは、つまりそういうことだった。ハイヒールを履いた女は背筋を伸ばし、燃える蝶を踏み抜くのだ。足跡は鱗粉のようにきらきらと光る。涙の雫を織り交ぜて。


 16の夏に、いつきは9センチのヒールを履いた。
 いつもより少し不安定で、少し視界が高くて、少し大人になった気分がした。夏らしく涼しげなサンダルから覗いた爪に人魚の棲む海のようなマニキュアを塗ると、自分が今までの殻を脱ぎ捨てて、今までにない世界に踏み出したような心地がした。
 白々と強烈な日光、晴れ渡った夏空は昨日までのそれとどこか違う澄まし顔をしているようで、いつきは舞台に上がった役者のように気取った足運びをした。コンビニのガラスに映る自分は、急に垢抜けたようだった。
 ガラスを探しながら歩いていると、部活帰りらしい蘭丸と行きあった。高校入学と同時に急に背が伸びた蘭丸は、宿敵の姿を認めると、炎天下に放置された梅干しを突っ込まれたような顔をした。

 「何だ、お前、その格好」

 間違っても賞賛のニュアンスは含まれていない。
 いつきはツンと鼻を反らせた。こいつに誉めてもらおうなぞ、考えてもいない。
 急に視線が近くなった幼馴染を上から下まで眺めまわしていた蘭丸は、少しばかり大人らしさが潜んだスカートの裾を慌てて通り過ぎ、いつきの足首の細さに初めて気付いた。そして、その足が今まで彼女には想像も出来なかった洒落た靴を履いているのに気付く。
 まるで蘭丸の知るいつきではないかのように、綺麗に反った爪先が海の底のような色に染まっている。

 「似合わねー」

 訳もなく苛だしくなって、そんな言葉が口をついた。いつきの瞳が傷付いた。それでも、撤回する気はない。酷い裏切りのように感じたのだ。気取った靴なんか履いて、綺麗になって、蘭丸と遊んだ素朴な少女はいなくなる。

 「おめえの感想なんか欲しくねえ」

 いつきはコツ、とアスファルトを蹴る音を響かせて、蘭丸の脇を抜ける。カッターシャツからは汗のにおいがした。少しの苛立ちと優越感。
 蘭丸の視線を背に感じながら歩き去るのは気持ちが良かった。

 コツ、コツ。
 浮き立った気持ちのまま距離を伸ばしていたいつきは、見覚えのある背中を見つけてすぐに彼の名前を呼んだ。一見して近寄りがたい男は、高い声の源を探して振り返る。その目が自分を見つけたのを喜んで、いつきは走り出そうとした。

 「痛っ」

 がくり、と右足のバランスを失って、いつきは大きくふらついた。男が慌てて駆けてくる。大きな図体に似合わぬ心配性だ。
 どうにか体勢を整えたいつきだが、駆け寄った小十郎に応えた声にそれまでの元気はなかった。
 男所帯だからと、いつきに触れるときはいつも壊れ物に触るように丁寧な手で、小十郎はいつきの細い体を木々の作った片蔭へと招いた。強烈な日差しが作り出すコントラスト、目も眩むような日向と木々の濃い影。きまぐれに葉を透かす光の中を、青い羽のアゲハ蝶がまろび遊ぶようにして飛んでいる。
 小十郎は膝をついて、いつきの足に触れた。分厚い掌の中で、凶器のように尖ったハイヒールは安い冗談にしか思えなかった。

 「挫いたりは、してないようだな……。だが、こんな靴じゃ、おちおち走れねぇだろう」

 一瞬見惚れちまったがな、と、庇うように似合わぬおどけ顔を作る小十郎を、いつきはまっすぐに見られない。
 いつきは、親指の付け根にできた靴ずれを目敏く見つけた。小十郎はまだ気付いていないようだったので、気付かれないことを祈った。

 「おらも年頃だ。綺麗にしてみたかっただよ」
 「それは、大成功だ」

 あやすような小十郎の言葉に頷きながら、いつきは影から出たり入ったりしているアオスジアゲハを睨む。
 黒の羽に青い筋。左足のヒールを小さく鳴らす。洒脱な夏の匂いのする蝶を、いつきは想像の中で標本にした。
 小さな足に縛り付けたハイヒールを男の掌から取り返すと、いつきはもう大丈夫とばかりに立ちあがって見せた。同時に膝を払った小十郎を見上げて、散歩の途中だからもう行くと告げる。いつも見上げると首が痛くなる長身の男は、嵩増しをしても尚長身だった。転ばないよう気をつけろよ、と、片蔭から送り出される。境界で遊んでいたアオスジアゲハの軌跡を突っ切って日向に戻ると、あまりの明暗に目が眩んだ。

 「ハイヒールを履いて背筋が曲がる女はいない」

 呪文のように呟いたいつきは、きっと見開いた目を伏せずに、コツ、と細いヒールを動かした。背筋を曲げたりはしない。顎を引き、瞳は強く前を見据える。一歩歩くごとに音が鳴り、親指が傷んで、見えない足跡と鱗紛を残した。もう、雲を踏むような昂揚は感じない。いつきが歩いているのは、歴としたアスファルトだった。陽炎が昇ろうと、逃げ水が見えようと、そこには固い地面しかない。
 歩き続けて、いつきは家の近くまで戻ってきた。夏の長い日がわずかばかり傾いて、油蝉の間隙を縫うようにひぐらしが感傷的な声を響かせている。近くにある公園で鳴いているらしい。
 ふといつきは、まだ金色の光に満ちた西空を背にするむくれ顔を見つけた。公園の入り口、ちゃちな黄色に塗られた柵に腰かけた蘭丸は、手足を手持ち無沙汰に放りだしたままいつきを見つけると、何も言うことなく立ち去ろうとした。

 いつきの目から、大粒の涙が零れ落ちる。

 突然泣き出した幼馴染に取り乱した蘭丸を放っておいて、いつきは涙を隠すことも止めようとすることもなく、まるで赤ん坊が叫ぶように次々と涙を生んだ。悲しいのでも、悔しいのでもない。いつきは急に理解したのだ。自分がまだ乳臭い餓鬼であること、自分がもう女であること、小十郎の元にはまだ遠く、蘭丸と虫を採るには育ちすぎ、そしていつきは、その二人のどちらとも同じ場所にはいない。少女は虫ピンで貫かれたが、標本箱には収めきれていないのだ。
 おろおろと手をこまねく蘭丸にただの泣き声だけをぶつけながら、いつきは9センチのハイヒールを呪った。
 蝶を踏み抜いたハイヒールを、いつきは明日も履くだろう。





 標本少女(ハイヒール)




 昆虫標本
 羽化の季節
 100805 J